読んでいきたい人の「君たちはどう生きるか」
――宮崎駿が幼少期に母から贈られた一冊が、現代に問い直すもの**
スタジオジブリの最新作「君たちはどう生きるか」は、表向きには“少年の異世界冒険譚”だ。しかし作品に触れた多くの人が感じる通り、その核にあるのは 外界と個人 の関係だ。
宮崎駿監督が、幼少期に母から贈られた同名の本からタイトルを借りた時点で、すでに本作のテーマは静かに提示されている。
賛否を生んでいる理由
――強い言葉だけが目立つ時代に**
公開当初から SNS や Yahoo コメントでは賛否が飛び交った。
ただ、その賛否の“音量”と“実際の多数意見”はイコールではない。
SNSはどうしても “強い言葉だけが表に浮かび上がる”。
物語を丁寧に受け取った人は、過剰に声を上げることは少なく、淡々と作品を受け止めている。
おそらく多くの観客は、賛否の応酬に加わるほどではなく、一つの作品として静かに受け入れているだけだろう。
そして皮肉なことに――
批判的な“そういう人たち”こそ、本作の中に象徴的に描かれていたりする。
それに気づけるかどうかもまた、この映画の面白さの一部だ。
作品の見方
――“ファンタジーとして逃げずに、現実との接点で観る”**
タイトルからして、本作は従来のジブリファンタジーとは一線を画している。
観客の側も、無意識のうちに 現実社会との接点を探しながら鑑賞する姿勢を求められる。
そして宮崎駿は、その“現実と作品世界を行き来する見方”を巧妙に仕掛けてくる。
異世界の出来事が象徴するのは、遠い物語ではなく、
私たち自身が日々向き合っている人間関係・社会構造・善悪・選択そのものだからだ。
キャラクターたちが象徴するもの
映画では多様な存在が登場する。
それぞれが 外界=社会 と 個人の内面 を行き来するメタファーとして機能している。
物語の案内人
主人公が前に進むために欠かせない、“友達であり導き手”のような存在。
キリコ
異世界で自立して生きる女性。強さとしなやかさの象徴。
ヒミ
キリコと同じく“自立した個”として描かれる存在。
ワラワラ
生命そのものの比喩。純粋で無垢なるエネルギー。
ペリカン
置かれた環境に追い詰められた存在。社会構造の犠牲者。
インコ(大衆)
大多数としての群衆。
インコ大王(大衆のリーダー)
組織のトップであるが、世界の成り立ちにも自身の内面にも向き合わない愚かさが描かれている。
大叔父(世代の象徴)
主人公に“時代を引き継ぐ”というバトンを渡そうとする存在。
どのキャラクターも、目で見える役割以上に
現実世界の「人々の姿」そのものを投影している。
スポンサーリンク (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 物語の核
――“世界”を知り、“自分の選択”を知る旅**
主人公は義母を探す旅の中で、異世界のさまざまな存在と出会う。
当初は現実とは違う世界に迷い込んだように見えるが、
関わりを深めるほど、
そこに生きる意思や葛藤は自分たちと変わらないことに気づいていく。
特に象徴的なのが、大叔父との“積み木のシーン”。
大叔父は積み木を差し出しながら、
「これは積み木ではなく、墓石と同じ。悪意を内包している」
と言う。
主人公はそれを直感的に拒む。
それを見て大叔父は、
「だからこそ、お前に託したかった」
と零す。
この場面には、主人公が旅の中で獲得した
**「価値観」や「選択するという主体性」**が凝縮されている。
そしてクライマックスでは、大叔父から“世界の主導権”を引き継ぐよう求められながら、
主人公は 自分の内なる“悪意”と向き合い、あえて断る。
支配ではなく“生きること”を選ぶのだ。
この作品が語る「生きる」ということ
自己の見聞を広げ、
世界の構造を理解し、
その上で 自分自身の選択をすること。
これは宮崎駿作品に一貫するテーマだが、
本作ではタイトルの段階からすでに問いかけが始まっている。
「外界と個人」
その距離をどう取るか。
どう折り合い、どう生きるか。
ジブリ作品の中でも、本作はもっとも“自分の内側”に切り込んでくる。
余計な一言(でも大事かもしれない)
難解だと言う人は多いけれど、
物語の構造だけでいえば 『千と千尋の神隠し』のほうがよほど複雑だ。
昔から一定数、
“作品を消費するだけの姿勢”の人たちはいたのかもしれない。
SNSの時代になり、その存在が可視化されたというだけ。
週刊誌のゴシップに飛びつく人たちと同じ構造だ。
本作は、そんな“外界のざわめき”も含めて、
観る者自身がどう生きるかを静かに照らしている。

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